10.モースが高く評価した家内芸術(民具)としての看板

「江戸看板は、アメリカの博物館に、モース・コレクションとして収蔵されている。いっぺん見てみたいけどなぁ・・・」 
ある日、南部白雲さんがぽつりと言った。
大森貝塚の発見で知られるエドワード・S・モースが、明治初期に日本滞在中、庶民の暮らしをつぶさに見聞し、「近頃、私は日本の家内芸術に興味を持ちだした(中略)時間が許しさえすれば、私はこの種の品物を片端から蒐集したいと思う」(『日本その日その日』)というわけで、3万点に及ぶという民具を収集してアメリカに持ち帰った。そのなかに、江戸時代中期から明治初期まで三百余点の看板も含まれ、セイラムーピー・ボディーという博物館に収蔵されたという。いまでこそ古い民具や希少な江戸看板などは骨董的価値もあるが、モースの目からみたらその時すでに立派な「家内芸術」だったのだ。とくに江戸時代の匠の緻密な技には、現代のわれわれでも驚嘆させられるのだから、さもありなんと思う。
日本での民具研究は明治時代にはじまり、その当初は人類学、土俗学の名のもとにおこなわれた。その先駆者として坪井正五郎が、商業民具としての看板に関心をもち、『工商技薦・看板考』(哲学書院・明治二〇年一〇月)を著わした。この本では51種類の看板を取り上げ、「個々の看板の形状・意匠をはじめ、それぞれの商品ならびに商いの特色などを述べ、さらに看板の変遷と生活とのかかわり、看板製作の要諦などにもおよんでおり、看板研究の出発点をなすものであった」。
明治の大実業家にして日本の資本主義の父ともいわれる渋沢栄一。その孫にあたる渋沢敬三(1896年~1963年)は、多くの民俗学者(岡正雄、宮本常一、今西錦司、江上波夫、中根千枝、梅棹忠夫、網野善彦、伊谷純一郎など)を支援し育てたことで知られるが、若いときから柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、私設博物館「アチックミューゼアム(屋根裏博物館)」を開設し、(のちに日本常民文化研究所と改称)、それがやがて現在の国立民族学博物館(大阪吹田)収蔵資料の母体となった。また、渋沢敬三自身も民俗学にいそしみ、漁業史の分野で功績を残しているが、昭和8年頃からは青淵記念(青淵:栄一の雅号)として「実業史博物館」の設立を企画して実業史関係の資料を収集し、後に日本広告主協会の会長にもなっている。
その博物館の中には看板や広告に関するものが多く、まだ読んでいないが『犬歩当棒録』(角川書店・昭和三十六年九月)という著書では、看板の発達について「絵巻物や職人尽絵その他の絵画資料や文献資料をもって考証している」という。
動物学者のモースが標本採集のために来日したのは1877年(明治10年)6月。縄文時代の大森貝塚を発見したのは、文部省に採集の了解を求めるため横浜駅から新橋駅へ向かう汽車の窓からだったという。その大発見もあってか、モースは請われて東京大学のお雇い教授を2年務めて帰国した。
澁澤敬三が生まれたのはそれから10年後の明治29年。モースが日本滞在のころ、広い視野を持つ敬三のような民俗学者がいたら、江戸看板はもっと日本に残されていたにちがいない。       平野隆彰
                                        (参照:『看板』岩井宏實 法政大学出版局 2007年)