12. 看板としての暖簾


「看板娘」、「看板倒れ」という言葉があるように、看板はその店を象徴・代表する顔である。だから店を閉店することを「看板です」と言った。
暖簾の場合も、「のれん分け」という言葉に示されているように、信用ある看板(屋号)を意味する。「のれんを下す」という意味には、「その商売を止めること」、あるいは「店の営業を終えること」の二通りあるが、いずれにしても、のれんは看板と同様の意味合いと重みがあった。
では、暖簾はどのように発展してきたのだろうか。
「暖簾は禅語のノウレンから出た名称で、僧堂内の風気を防ぐために下げたようである。それより古くは、日除けのための幌すなわちトバリというようなもので、蔀(しとみ)をあげたときの日除けに使われ、ときには障子の役割も果たしたようである。」(『看板』より)
家の出入り口に下げられるようになったのは鎌倉時代の末期からで、店舗の屋号や文様をあしらったのれんが現れるのは室町時代の末期からだという。
天下布武の号令をかけた信長の安土・桃山時代になると、商人たちの活躍が目立つようになり、都市部では豪商と呼ばれる新興商人が成長していった。南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響も受け、豪商たちの富を背景にした豪華絢爛な文化傾向、いわゆる桃山文化が生まれていく。一方で茶の湯が流行し、唐物の名物茶道具が珍重されたり、その反対をいく利休のわび茶ももてはやされた。
家の出入り口に下げられるようになったのは鎌倉時代の末期からで、店舗の屋号や文様をあしらったのれんが現れるのは室町時代の末期からだという。
天下布武の号令をかけた信長の安土・桃山時代になると、商人たちの活躍が目立つようになり、都市部では豪商と呼ばれる新興商人が成長していった。南蛮貿易によってもたらされた南蛮文化の影響も受け、豪商たちの富を背景にした豪華絢爛な文化傾向、いわゆる桃山文化が生まれていく。一方で茶の湯が流行し、唐物の名物茶道具が珍重されたり、その反対をいく利休のわび茶ももてはやされた。
そうした時代背景のもとに、往来が多い都市部の商業の発達とともに、のれんの役割も重要になってきたわけである。
その先駆的な都市は堺だった。商売が座仲間を中心に営まれていた時代は一店一品だったので、店の特徴を示す看板の類がなくても商売ができる。だが堺は、戦国時代末期から三十六人の会合衆による自治制がしかれ、自由都市として活気にあふれていた。外国貿易などで早くから繁栄していた堺では同業者も多くなり、自由競争で他店との差別化が必要になった。屋号や紋章を染め抜いた暖簾を店先に吊るすようになり、しだいに大坂や京の町にひろまっていった。したがって暖簾は上方から発達し、看板は江戸を中心に多様なものが生まれた、ということである。
そうした時代背景のもとに、往来が多い都市部の商業の発達とともに、のれんの役割も重要になってきたわけである。
その先駆的な都市は堺だった。商売が座仲間を中心に営まれていた時代は一店一品だったので、店の特徴を示す看板の類がなくても商売ができる。だが堺は、戦国時代末期から三十六人の会合衆による自治制がしかれ、自由都市として活気にあふれていた。外国貿易などで早くから繁栄していた堺では同業者も多くなり、自由競争で他店との差別化が必要になった。屋号や紋章を染め抜いた暖簾を店先に吊るすようになり、しだいに大坂や京の町にひろまっていった。したがって暖簾は上方から発達し、看板は江戸を中心に多様なものが生まれた、ということである。
暖簾の種類としては、長暖簾、水引暖簾のほかに、日除暖簾(太鼓暖簾)、半暖簾、縄暖簾がある。
・長暖簾  四尺二寸(一六〇センチ)。店の入口に看板とともに大きく吊るされる。
・水引暖簾 一枚の布を門口いっぱい横に張る。
・日除暖簾(太鼓暖簾) 大風呂敷のような一枚物の上下に乳を付けたのれん。軒先か
ら道路にせり出して、下部に石などで重しを付け、夜間も取り込まずに家印とした。風に煽られると音がするので太鼓暖簾の異名がついた。
・半暖簾 布丈一尺五寸(約五六・七センチ)のものを三布にした暖簾。そば屋、すし
屋など飲食店に多い。
・縄暖簾  縄で紐状に編んだのれん。寛政年間(一七八九~一八〇〇)になって盛
んになった安上がりな居酒屋に掛けられた。この伝統はいまもある。
業種によって使う暖簾の傾向があったが、「大店ことに江戸の呉服屋などでは長暖簾、水引暖簾、日除暖簾(太鼓暖簾)を併用していた」という。
江戸時代の大阪では、「家の中を明るくしておくと福の神がとび出してしまう、明るい家には金が溜まらないという俗信があった」ので、長暖簾をかけてさらに薄暗くしたというのは面白い。また大阪は江戸と違い、よそ者であっても「生え抜き」になった商人の多く、家業を大切に守る気風が育ち、古い暖簾が店の信用をあらわした。主家を中心とする同族結合の世界(のれんうち)が形成され、暖簾は商い・商売人魂の象徴として大事にされた。
「一般商家では手堅さを身上として藍暖簾が多い。藍は薄藍から濃藍まで濃淡さまざまに染められ、藍の香りは虫が嫌うので、呉服屋はほとんどが藍暖簾を用いた」
紺の暖簾は何度洗っても色がさめにくいだけでなく、風格がにじみでる。色がさめてもその古さが老舗のれんとしての風合いにもなった。
「菓手屋が白暖簾を用いたのは菓子の主要な原料が砂糖であることに起因する。この白地の真中一布に屋号を墨書したものが多い。ただし寒期には藍暖簾を掛ける店もあったが、それも真中の一布だけは白地として屋号などを書いた。
薬屋も白暖簾を掛けることがあったが、それは薬屋もはじめ砂糖を薬として扱ったからであった。煙草屋は葉煙草を刻んで売るので、その乾燥した煙草の葉の色である茶暖簾にしたのである。
遊女屋では島原・吉原で太夫と格付けされた遊女のいた店だけが柿色暖簾を掛けた。この色は市川団十郎の三枡の大紋を染め抜いた素襖(すおう)の色だという。」
以上、『看板』から抜粋・引用してきた。

たしかに、のれんも看板の一種に違いないのだが、最近は古都の街並あるいは保存地区などはやや例外として、町行く観光客が店ののれんを看板(目印)として意識することは少ないのではなかろうか。全国各地の町の商店街が次々と廃れていくにつれて、看板の役割をした暖簾が表舞台から退いていったからだ。
ところがこの数年、「のれんの町」として復活した町もある。
美作三湯で有名な湯原温泉の近くにある、岡山県真庭市の勝山町である。1985年、「岡山県町並み保存地区整備事業」の「町並み保存地区」に第1号として指定されたという。そこに住む一人の草木染作家・加納容子さんがつくるのれんがこの「保存地区」を飾ったことで一躍有名になったのだ。
雑誌(SIGNS)やネットの写真で見ただけでも、すばらしいデザインのれんが町全体を蘇らせていることがわかる(ちなみに加納容子さんは、2008年度のSDA賞特別賞・財団法人日本産業デザイン振興会会長特別賞をはじめ、「優秀観光地づくり賞」など様々な賞を贈られている)。
南部白雲さんが住む井波町も、300人近い彫刻師たちの手による店舗の看板や家々の表札などで飾られ、彫刻の町らしい雰囲気をかもしているが、勝山町の「保存地区」は草木染作家一人のはたらきによるということに恐れ入ってしまう。
店舗の看板はもとより都市空間を飾るモノ(標識や広告物)のすべてサインという定義する「SIGNS編集部」でも注目され、加納容子さんとこの町のことは何度か誌上で取り上げられている。一度ぜひ訪ねてみたいと思っているが、ネットで検索したところ、とてもわかりやすいレポート記事(ユニバーサルデザイン編集部・文・写真/橋本知人)があった。
詳しくはこちらを
ユニバーサルデザイン.jp 岡山県真庭市勝山の「のれんによる町づくり」

※ のれんの写真は、SIGNS140号(2011年No2)より