6. 住吉大社「神馬塚」の看板を納める
2012年1月5日
JR南田辺駅のすぐ近く
南部白雲木彫刻工房が、全国有数の神社「住吉大社」とのご縁ができたのは昨年のこと。それから1年足らずのうちに、白雲さんは看板をはじめいくつかの作品を受注した。
その一つが、正月早々の1月5日、初詣でにぎわう住吉大社の第一本宮に納めた「神馬塚」の看板だ。結婚式場の看板(鶴亀)と続いて2つ目。
納品日の前日から丹波は吹雪いていたので、富山のほうはもっとすごいだろうと案じていたが、
「どうもないよ、これくらいの雪」と白雲さん。1トン車のレンターカーに3人乗って、早朝から北陸道を走り、昼過ぎには住吉大社に到着、大阪は肌寒いが晴れていた。電車で向かった私も同時刻には境内に着く。
馬の躍動感・表情もよく、風雨に耐えるように看板の字も彫り込んでいて、これを野外に置くのはもったいないくらいだ。さっそく禰宜さんを交え記念撮影。
この看板は住吉大社境内にではなく、大社から車で15分ほどのJR南田辺駅のすぐ近くにある「神馬塚」に建てる。その昔、この地区(住吉区山坂)では多くの馬が育てられていたそうで、住吉大社の神馬も普段はここの厩舎で飼育されていたという。
「よく馬が脱走したりしましたよ」とすぐ近くのお寺の住職が笑って話していた。ご住職のお年から察すると戦後間もないころまで馬が飼われていたのだろうか。いずれその辺の歴史を調べてみよう。
神馬塚のすぐ横に、漢方の風邪薬を製造発売する「うどんや風邪一夜薬」という珍しい名の店舗がある。「うどん一杯食べて、この薬を飲めばすぐ治る」という大阪らしいシャレだという。そこの店主は住吉大社の氏子さんで「町起こし」のためにも神馬塚の看板を立てたいと、大社に申し出ていた。どんな看板がよいかと住吉大社で検討・思案していたところに、白雲さんとの縁がタイミングよくつながったというわけである。
その最初のきっかけは、よしみ工房の「木っころ」を納めたことに始まった。
「ちっちゃなご縁から、住吉大社とご縁ができたことはものすごく大きいね」と白雲さんも喜んでいるが、看板彫刻の普及活動を長年コツコツと続けてきたからこそ生まれたご縁であることは確かである。
神馬の白馬をアオウマと呼ぶのはなぜ?
1月7日は、住吉大社で「白馬節会」(あおうませちえ)という神事がおこなわれる。
「奉行の神人二人が神馬につきそい、第一本宮の斎庭に出て、斎主祝詞奏上のあと、神馬舎人が神馬の口をとって拝礼、つぎに第二、第三、第四各本宮を拝し、第一本宮の周囲を駆けること三度、さらに四本宮の外周を一周して第一本宮に至って拝礼退出する」(『住吉大社』学生社 より)
「元来、神馬には神の依り坐しとなるものとされ」、それだけに清浄な姿の白馬が選ばれたのだろう。白馬は突然変異でしか生まれない希少な馬で、色素がないため足の爪先まで全身真っ白で(サメ馬という)、目はウサギのように赤い。毛細血管の赤色がそのまま出ているからだという。
白馬はめったに生まれないが、神馬が老いて代替わりするころになると不思議と丹波地域に新たな白馬が産出して途絶えたことがなかった。しかし近年は馬を飼う家も少なく、さすがに丹波でも新たな白馬が出なくなり、この正月にデビューする2歳馬の神馬は道産子だという。
ちなみに白馬を「アオウマ」と読む理由は不明だそうだが、文献の上では、『文徳天皇実録』に「仁寿二年(852年)十月、天皇豊楽院に幸して、青馬をご覧になり陽気を助けた」と記されているという。
「馬は陽の獣類で、アオ馬の目は碧色であり、碧緑は春の気を湛えるから、いつの頃から正月七日にアオ馬を見れば年中邪気を除くという信仰が生じたのであろう」(前著)
万葉集(四四九四)にも大伴家持の歌にもある
水鳥の鴨の羽の色の青馬をけふ見る人は限りなしと云う
この歌からして、「奈良時代にも正月七日に青馬を見ることが初春の宮中恒例の儀式であったことがわかる。ただし青馬は、何時の頃からか白馬に変えられたが、呼ぶには『アオウマ』のままをのこされたのだろう」(同書)。
騎馬民族には馬の毛色が何十種類もある
歴史資料もたしかなものがない寺社縁起というのは、どうしても推測の域をでない。それは何も寺社に限ったことではなく、村に残された伝説なども同じである。何百年も人から人へと伝わるうちに、黒が青となり、青が白となったりする。要するに、都合がよいように伝えられていくわけだが、この神馬神事の由来について連想するのは、戦後の学界をにぎわせた日本騎馬民族説(江上波夫)である。
現在の住吉大社は、海岸線から7キロも奥に入っているが、その大昔は、「隅の江」とも「青江」とも書かれたように青く澄んだ入り江だった。だから海の神様として住吉大社は創建されたわけだが、宮中儀式にもなっている白馬神事には、海を渡ってきた騎馬民族の臭いが感じられる。「神功皇后がはじめて斎い祀った」(同書)のが住吉大社だとすればなおさらに。
モンゴルの遊牧民には、馬の毛色が何十種類にも見え、当然その微妙な毛色を表現する言葉が同じ数だけあると、何かの本で読んだことがある。青がかった茶色とか、赤みのある茶色というように微妙なニュアンスの色の言葉があるというのである。日本人が雨を表現するのに、「霧雨、驟雨(しゅうう)、氷雨、夕立、篠突く雨、霖雨、五月雨、時雨、春雨、地雨、梅雨」といったように使い分けたりするのと似た感覚かもしれない。
だとすると騎馬民族の目からしたら、この青馬というのも文字通りの「青色」という意味ではなく、青がかった茶とか、青がかった黒という色なのかもしれない。実際、白馬はともかく、純粋に青い馬などこの世に存在しないだろうから。
そもそも日本の古代は、大陸の騎馬民族だけでなく周辺の島々の海人などさまざまな民族・種族が入り込んできた。その意味で日本人は、縄文人、弥生人と単純に分けられるものでもなく、古代には馬の毛色の微妙な違いも見分ける騎馬民族の遺伝子も相当残っていたということだろう。
海の神様の住吉大社に神馬神事が伝わっていることもその遺伝子の現れかもしれない。近年は「日本騎馬民族説」を否定する学説も多いようだが、この神事そのものは騎馬民族の伝統儀式ではなかろうか。神馬は世にも珍しい貴種でなければならなかったから、いつしか青がかった毛色の馬に代わり、馬に縁のない誰が見ても美しく、神様の依り坐にもふさわしい「白馬」になったのだろうと想像する。
町づくりのシンボルとしての看板
権宮司さんにご挨拶したあと、2日後(1月7日)にデビューする道産子の白馬が神馬舎にいるというので御暇のときに見に行った。
なるほど、いかにも道産子らしいがっしりした体躯で、背丈はサラブレッドの腹のあたり、足は短く太い。たしかに遠目に見れば真っ白な馬に見えるだろうが、近くに見ると、淡い茶色の毛が少し混ざって、まったくの純白ではない。ただし、日本人はこれを白馬というが、騎馬民族なら何色というのだろうか。神馬が愛きょうよく近づいてきたので、手を出して鼻の上を撫でてやると、甘咬みしてきた。ちょっと痛かったが、神馬に咬まれて「幸運」が招来する気がした。
7日の白馬神事のときに「神馬塚」の彫刻看板はご祈祷された後、神馬塚の大きなイチョウの木の前に建つことになっている。いまは、空き地に小さな石碑がポツンとあり、殺風景で歴史もなにも感じられない。
だが1カ月ほど後には、大きく伸ばしたイチョウの枝を伐ったり、土台づくりなどして看板を据え、その上には銅葺きの屋根が乗る。この屋根が乗ると看板はさらに大きく立派に見えるはず。
いつの間に、由緒ある神馬塚にふさわしい記念碑が建っている。周辺の住民たちはあっと驚くだろう。そして地域の人々の歴史意識を蘇らせ、町づくりのシンボルとして長く愛されることだろう。そのことがまさに、職人としての白雲さんの本懐であり誇りでもある。
「たかが看板、されど看板」なのだ。 平野 隆彰