5. 蔵の街・川越を訪ねて

2011.10.23

美しい日本の歴史的風土100選(平成19年)
「川越の蔵の街、一度見てきたらいいね」と、白雲さんに言われていた。以前から行こうと思っていたが、なかなかその機会がなかった。東京から近いとも聞いていたけれど、一度も足を運んだことのない埼玉県だし、もっと遠いのだろうと・・・。行くにしても暑い真夏は避けたい。観光名所の人ゴミを想像するとなおさらだ。
この日は東京に行く用事があり、川越にいくために1泊することにした。白雲さんが言っていたように、池袋から川越まで1時間もかからなかった。目的はもちろん、蔵の街の看板を見ることである。あいにく日曜日とあって観光客が多かったが、3時間余り、2~3キロの範囲の街並みをぶらつきながら、店構えと看板の写真を撮る。
ほぼ直線の長さ1キロほどの2車線の道路には大型バスや自家用車で渋滞し、その両側を人力車が走り、観光客が列をなして歩いている。店の前で人だかりがあるので混雑ははなはだしい。最初はそこに目を取られていて気付かなかったが、この通りには電柱・電線が1本もない。街の景観をよくするため、平成に入ってから全て地下ケーブルにしたのだという。
「これで電柱がなかったらなぁ。すばらしい街並み景観になるんだけど」
今年の6月、丹波篠山市河原町の伝建通り(重要伝統的建造物群保存地区)で、「南部白雲 看板展」を開催したおりに、白雲さんがそう言っていたことを思い出す。
この川越はわずか1キロほどの蔵造りの街並みだが、平成11年に文化庁の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、平成19年には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定された。観光誘致においてこの指定の効果は大きい。電柱の埋設がすすまない篠山市の伝建通りは、平日は閑古鳥がないている。

大江戸とつながる小江戸の町
かつて川越は、「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われたという。その訳が来てみてよくわかった。要するに川越は、多摩川がむすぶ舟の物流によって大消費地の江戸に食糧や資材(木材・燃料など)を供給する一大基地だったのだ。大江戸を扇の要として、川越のような供給地が扇状に広がっていた。つまり「小江戸」のように発展したのは川越ばかりでなく、四方八方に存在したわけである。「江戸の文化が真っ先に伝わる繁栄した町」という意味あいで呼ばれていたが、現在に至るまで街並みとしてよく保存されたのが、川越をはじめ、栃木県栃木市・千葉県佐原市(現香取市)の3市だったのだろう。
栃木県栃木市は、言わずと知れた徳川家康の日光東照宮のおひざ元。
日光例幣使街道の宿場町として江戸と密接につながり、蔵の街としても知られる。「小江戸」と「小京都」の両方を名乗り、全国京都会議にも参加しているが、小江戸サミット参加以降は「小江戸」を観光のキャッチフレーズにすることが多いという。
千葉県佐原市(現・香取市)も、
「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われたそうだ。伊能忠敬が商人として活躍していた町で、江戸にむすぶ利根川水運の拠点のひとつでもあった。関東地方では初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたというから、一度訪ねてみたい。
この3市は平成8年から、「小江戸サミット」なるイベントを会場の持ち回りで毎年開くようになった。第16回目を数える今年(平成23年)は東日本大震災で中止となったが、「日本橋架橋100周年記念(3月15日~4月30日)」では、3市ともに日本橋お江戸舟運まつりに和船を派遣して当時の舟運を再現した。
地の利をいまにも活かし、東京という大消費地に向かって広域連携で情報発信をすることが、マンネリ化しない地域活性化にもつながっていく。

看板にもひと工夫をすれば・・・
火事と喧嘩はお江戸名物といわれるほどだった。いったん火事が出ると、家が密集した町では類焼がまぬがれない。蔵造りは類焼を防ぐ耐火建築として貴重な財産を守る倉の建築に採用され、江戸の町家形式としても発達した。
川越では、倉だけでなく一般の町家で土蔵造りを採用しているという。明治26年3月、川越は大火に見まわれ1,033戸が焼失した。数軒の倉だけが残ったことで蔵造りの工法が見直され、町家でも次々に採用されはじめた。最盛期には100軒もの蔵造りが建ち並んでいたそうだが、現在は蔵造りの家が30軒ほど残っている。ここの蔵は黒くて厚い壁、大きな鬼瓦と高い棟などが大きな特徴である。蔵の扉の厚さが、40センチほどあるのがスゴイ。
こうした蔵造りの家々が伝統技術工芸の店、土産物屋や飲食店になっている。手焼きせんべい、特産らしいサツマイモの菓子などを食べる。
それらの店看板は当時のままのものもあるが、多くは新たに作られた看板だ。もちろん木製看板で、店名を浮き彫りに掘りこんだもの、文字で書いただけのものや絵で表現したものもある。なかには蔵造りの重厚な建物にはちょっとそぐわない感じのものもある。白雲さんにしたら、「せっかくの建物に残念やなぁ」という看板もあるだろう。種屋の看板は、そらまめから芽が出た彫刻看板だった。これは白雲さんもよく覚えていて、「ユニークでオリジナル性もある。板金できた屋根にもう一工夫があればオモシロクなるだろう」とも言っていた。人力車も走る街なのだから、いっそのこと徹底して、車の乗り入れも制限して、歩行者専用にしたたらどうなのかとも思う。そしてまた看板にももっと楽しい、オリジナルな工夫を・・・。次回は白雲さんと一緒に訪れて、いろいろと意見を聞いてみたいものだ。
歩き疲れて、「川越まつり会館」に入る。そこには山車が展示されていて、20台ほどある各地区の山車の説明がある。やはり小江戸というだけあって、祭り好きらしい。夏祭りで演じられる伝統芸能の公演が一日3回ほどあり、1時間ほど見物した。太鼓や笛に合わせて、ひょっとこ、おかめの面をかぶった人の演技がおかしい。カーニバルのような現代のイベントと違って、こういう伝統芸能は奥ゆかしい味わいがある。建物の保存ばかりでは片手落ちというもので、伝統芸能の保存も大事である。
このあと博物館まで1時間余かけて往復し、人だかりする時計台のそばで地元ビールをぐっと飲み、蔵の町を後にした。